2022年10月18日

高崎市並榎町ってどんなところ

弊社事務所のある並榎町の周辺の土地の情報を知ろうと歩いてみたりします。

とにかく並榎町の団地には【大きな敷地に大きなお屋敷】そんな邸宅が珍しくありません。

並榎町について少し調べてみたら納得でした。

 

1898年に下並榎から並榎町となって成立した地名だそうで、この地域は高崎で特に閑静な地域であったことから、大正から明治にかけて高級住宅街、別荘地として注目されていたのだそうです。

 

3000人強の人口。

 

 「並榎」という地名はどこからきたのか。

高崎新聞なるものを発見し調べてみました。

安貞元年(一二二七)の『法然上人絵伝』(『高崎市史』資料編4、中世Ⅱ所収)に「上野国より登山し侍(はべ)りける並榎の賢者定照」があり、鎌倉時代のはじめ近くまでさかのぼることができる。町名の由来は、榎(えのき)が多く並ぶように自生していたことによるといわれている。

 

明治二二年(一八八五)「西群馬郡高崎駅」は「高崎町」となり、このとき「下並榎町」は、下和田村、赤坂村とともに高崎町に合併し、「上」がないのであるからとの理由で、「下」の字をとり、「並榎町」となったそうです。

 私もずっと【下並榎】はなんで無いのだろう?と疑問がありましたがこれでスッキリしました。

  

町の南西方の字「幅(はば)」地内からは、弥生時代中期の遺跡が発見調査されている。また、町の西方に字「修理免(しゅうりめん)」があるが、これは、下並榎村当時、村内にあった社寺、念仏堂などの修理費を出すための、免税共同耕作地からつけられた名である。

 曹洞宗の常仙寺(じょうせんじ)は、明治七年開校の上・下並榎村共立の小学校に充てられた。

 

明治、大正期のこの町は、閑静な田園地帯で、住宅地として次第に人家が増えてきたのだそうです。

 

町の歴史を読み解くと地名の不思議や
現在の住宅街の様相も感慨深く目に映ります。

ますますこの地、並榎町を深く知りたくなりました。


佐鳥 
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